父と釣り

 私の父は、生まれるとすぐ父親を失い、三歳で母親に死なれ、いわば、孤児同然の生い立ちであった。
 私の祖父は、明治の廃藩置県のあと、佐賀の鍋島から出て、初代の品川県知事をつとめたことがあり、当時としては、素晴らしい出世コースに乗っていたが、病を得て国許に帰り、四十数歳で死んだ。私の父は、江戸の上屋敷で生まれ、その知らせは、終りの近い、祖父の病床に届いた。女ばかりの裾に、ようやく得た跡継であったから、祖父はいたく喜び、「千年」と名付けた。せめて、息子にだけは長寿をと祈ったのである。私の父は、祖父の願いの通り、九十二歳まで生きた。
 両親の愛を知らず、厳格一点張りの学者の家で育てられた父は、終生、酒も煙草もやらず、寡黙な、偏屈な性質で、親しい友人も殆どなかった。私の母によると、いよいよ結婚と決ったとき、父の周囲では、驚いたという。
「えッ? 結婚するんだって、あの変人が?」
 幼い頃の生い立ちが、徹底的な自己閉鎖へ父を追い込んでいたのである。私は、大人になるまで、全く父を理解出来なかった。叱られることだけが、父との接触であった。父を憎み、父に武者振りついて行ったこともある。
 昔、一高から帝国大学のコースは、どんな栄達の道にも近かったが、孤立無援、極端な非社交性は、ついに一生を中学の教師として終った。
 これも、私の母に聞いた話だが、育ての親のきびしさは、帝大在学中、ついに、憧れの金釦の制服を着せてもらえなかった。鉛筆一本買うにも、ちびて使いものにならなくなった鉛筆を見せた上で、遠慮しいしい、ようやく、何厘かの金にありついたという。これに類する話は、母からいくらも聞かされたが、鉛筆の話ひとつだけで、後年、私はよく涙ぐんだものである。

父と釣り差し込み写真(東大)

聰さんも、聰さんの父親も通った東大の校舎です。歴史を感じさせる、建物です

 晩年、長寿の秘訣はと問われると、
「粗衣粗食、貧乏だからさ」
 と、父は、はにかんだ笑いを見せるようになった。
 私は、六人兄弟の長男であるが、父は経済があまりにも苦しく、一時、教職を退いて、神戸の鈴木商店へ勤めたことがある。鈴木商店といえば、大正はじめの大恐慌のとき、米の買占めから怨みを買い、焼打にあった、米騒動で有名な会社である。
 山陽線を下って行くと、姫路をすぎて、竜野(たつの)という寒駅があった。そこから、一時間の余も歩くと、海に面して相生(おう)という村があり、そこに、鈴木商店の、播磨造船所があった。私たちは、父について、相生に移住し、二年ほどそこにいた。私が、十歳ぐらいの頃である。
 広い農家の、奥の二部屋を借りていたが、庭先がそのまま、小川の河原につづいていた。私たちは、鶏と家鴨を飼い、卵をとった。鶏舎をつくるのも、餌をやるのも子供の仕事であったが、日中は殆ど放し飼いで、家鴨はいつも、私たちの川遊びの仲間であった。澄んだ流れには、めだかや、やまべが群れていて、私たちは、手掴みにした。ときには、近所の子供と一緒に、流れを一部堰きとめて、かいぼりして、バケツに一杯も魚をとった。鰻を釣ったこともあるが、泥鰌(どじょう)掬いが一番面白かった。家鴨は、泥鰌とりの名手で、尻を逆立てて潜ったとみると、黄色い嘴に、もう黒い泥鰌が跳ねている。天を仰いで首をひと振りすると、どじょうは、するりと喉もとへ消えて行く。私たちは、家鴨の首に縄をつけ、鵜飼の真似をしてみたが、これは、巧く行かなかった。鮒や鯉もいた筈だが、全く記憶がない。
 あるとき、探検と称して、川伝いにどこまでも遡ったことがある。川は次第に細く、急湍(きゅうたん)となり、岩場となった。人跡未踏とも思われる森閑とした山峡に、美しい瀞場を発見し、長らく、そこが、私たちだけの、秘密の別天地となった。仲間をひろげるでもなく、いつも、ほんの四人ほどで行った。魚を釣ったり、泳いだりして遅くなり、いたく叱られたことがあるが、決して、行先は言わなかった。
 瀞の上の、大きな岩で、私たちは昼寝をしていた。ふと醒めてみると、程遠からぬ山裾に、何やら巨大な黒いものが見えた。獣が、跼っているのである。それが、悠然と首をめぐらして私たちを見た。仲間の一人が、叫んだ。
「山犬だあーッ!」
 蒼くなって私たちは逃げたが、はたして、狼であったか、犬であったか。獣と、まともに目が行き逢った恐怖感は、いつまでも、私たちを慄え上がらせ、それ切り、そこへは二度と行かなかった。
 父が、私たちの遊びに加わったことは、一度もない。父は、暇さえあれば、漢書などを読んでいた。しかし、父が、小さなオルガンを私たちに買ってくれたのは、この頃である。このオルガンは、戦災で焼け出されるまで我が家にあり、長らく、私たちの愛玩物であった。
 裏の峠を越して行くと、忠臣蔵で名高い赤穂の町があると聞き、何度も憧れたが、ついに、その折がなかった。父は、赤穂の町に、珍しく知人が出来て、よく釣りに誘われて出かけた。私もお伴を仰せつかったことがあるが、行ってみると、赤穂の町ではなく、淋しい漁村でがっかりした。何が釣れたものか、不思議に記憶がない。男の子は、例外なく釣りが好きになるものだが、父のお伴は有難くなかった。一日中、口をきいてもらえないのである。
 鮎の解禁で、加古川の奥へ連れて行ってもらったことがある。岩場のあちこちから、延べ竿が無数に交錯していたことと、茶店の床几の、赤毛氈(あかもうせん)が鮮やかであったことだけは覚えているが、釣りの想い出は全くない。
 学校の休みで、母の里の名古屋へ行ったとき、築港の方の河口へ、ぼらの夜釣りに連れて行かれたことがあるが、釣りについては、何も覚えていない。ただわいわいと、暗がりに人が群れていて、あちらでもこちらでも、ひっきりなしに魚が岡に跳ね上げられ、釣師は、大騒ぎで抑え込みに走っていた。岡からのギャング釣りである。びっくりするほどの大漁で、夜半に帰宅したあと、母ひとり台所に立ち、いつまでも魚の始末をしていた姿だけは、はっきりと残っている。
 父は、ただの一度も、私には釣らせてくれなかったのである。味噌っ粕は、見物するだけが役目で、面白い筈がなかった。
 私の釣りは、どう考えてみても、父も感化ではないのである。はじめは、むしろ、好きではなかった。たまたま、チャンスが廻ってきたときだけの、その場かぎりの暇つぶしであった。青年時代には、スポーツ、文学、音楽、それに女性と、やることが多すぎた。終戦後、ある転機にぶつかり、否応なしに釣りに追いやられ、次第に、組織的に深入りすることになったのである。


 釣りではないが、父との挿話をひとつ附け加えておく。
 私が高等学校へ入った年、上から四番目の弟が、ジフテリヤで急死した。十二歳にもなっていたから、町医の誤診があったらしく、それと気づいたときには、心臓をやられて手遅れであった。当時、父は姫路中学につとめていて、家は姫路にあった。東京の家から呼び戻されてみると、弟は顔色もよく、いささか拍子抜けしたが、その夜のうちに死んだ。
 翌日、奥の、父の書斎に祭壇を設けることになったが、夥しい書籍の山が邪魔であった。私たちは、手分けして、書籍を縁側へ運び出していたが、そのときである。ひときわ大きな木箱があり、ずっしりと重い、その箱の蓋の隙間から、ひらりと一枚、舞落ちたものがある。何気なく拾って、私は、どきんとした。真正面からうつした、女陰のクローズアップである。好奇心にかられて蓋を除いてみると、ふくらんだ、大きな茶封筒がいくつもあり、中は、全部写真であった。局部の大写しだけでもかなりあったが、殆どは、男女交合の、生々しいものばかり、外国人のものも沢山あった。茶封筒の下に、ぎっしり詰まっていた書籍も、全部その方面のものばかりであった。旧制高校の一年といえば、まだ十代とはいいながら、立派な大人である。すでにそのようなものは十分に見知っていた。しかし、嫌悪感が先に立ち、厳格無比な父の、意外な裏面を許せなかった。私は、父を、変態だと思った。母は、最後まで、このことを知らなかった。父ひとりの秘密であった。
 その後私は、休みに帰省すると、父の不在を窺って書斎に忍びこみ、こっそりと抜き出しては読み、眺め、また、そっくり元の通りに蔵いこみ、何喰わぬ振りをしていた。
 梅原北明という人があり、その方の秘密出版では、前科何十犯強者(つわもの)らしく、その人の豪華本が沢山あった。印度の性典、カーマスートラをはじめ、ファニィ・ヒル、蚕一夜などの通俗本にまじり、謄写版刷りの汚らしいものまで揃っていた。特に、夥しい写真の類は、いったいどうやって手に入れたものか、驚嘆すべきコレクションであった。
 謹直な父は、このひそかな秘密によって、世の常の放蕩に代えていたのかもしれない。父が変態ならば、息子の自分も変態ではないかと、気づく頃には、私はもう父を許し、自分の、卑怯な覗き見をも許していた。それまで、あまりにも非人間に見えていた父が、俄に身近に感じられ、私は、父を愛することを知ったのである。
 私は、長らく、誰にもこのことを喋ったことはなかった。父のためにも、私のためにも、不名誉なことだと思ったからだが、今では却って、父の、たしかな、美しい想い出となった。
 先日、僅かな父の遺品を整理したが、すべては、戦災で焼けてしまったのであろう。家系図だとか、祖父が官職についたときの辞令などがある切りで、秘密の匂いのするものは、何ひとつなかった。