序にかえて

 テレビに、「人に歴史あり」という番組がある。功成り名を遂げた各界の名士が登場し、縁故の深いゲストがとりまいて、その輝かしい業績をたたえる。まことに結構な企てで、ときには、思わず涙ぐんで拝見することもある。とくに長い間の苦しみに堪えぬき、道ひとすじに、戦いに次ぐ戦いを一歩もゆるめず、ついに、その努力を実らせ、万人がその業績を認めざるを得ないところまで生き抜いた人の姿は、まことに胸をうつものがある。
 ところが、どこでどう間違ったのか、私のところへも出演の話が廻ってくることがある。もちろん、絶えて出たことがない。番組製作の側には、いろんな事情があって、必ずしも正味の実績に選定の基準があるわけでもないであろうし、ただのショー番組と考えれば、別に、こだわることもないのである。私も、多少、そんな話がかかってくる程度に、年をとってきたのかと、苦笑まじりに、すんなり乗せられているのが、むしろ、奥床しいと思いながらも、やはり、
「私にはまだ、歴史というものがございませんので」
 などと悪びれた断り方をしてしまう。
 歴史とは何ぞや、などと格別に考えたことがあるわけではない。どんなふうに貧しくとも、過去に歩いた足跡が、そのまま、その人の歴史で あることに間違いはない。しかし、人から水を向けられない限り、深夜ひとりで、しんみり、昔を振り返ってみるなどということは、まず、ない。思い出したり、人にきかせたいような、誇らしい過去が、私には全くないのである。私も、そろそろ年なのだから、人に見せたいような過去の一つや二つあっても当たり前なのだが、それがまるでない。よしんば、それほど、あいまいな、貧しい過去であっても、そのような、みすぼらしい自分が、まぎれもない自分であったのだと、潔く白状してもよいのである。それが出来ないというのは、よくよく垢抜けない根性だなあと、淋しくなったりすることもある。
 私などは、長年、錯誤につぐ錯誤、その度に、身にこたえ、少しは懲りたはずなのに、またしても、すぐ、錯誤におちいる。生涯の終わりが近づいているというのに、これはまた、何と恐ろしいことであろう。
 嘘か本当か、はっきりしないが、チャーチルは死の瀬戸際に、
「もう沢山だ、うんざりしたよ」
というようなことを口走ったそうだ。私の尊敬する友人が、そのことを私に伝えて、口惜しがった。
 「チャーチルほどの偉人が、何という、意気阻喪、つまらない言葉を吐いたものだ」
 友人は、そこに、戦いをやめた人の姿を見たらしい。私は、反論した。
 「人一倍、十二分に力を出し切った人の偉大なユーモアだよ」
 チャーチルについては、私は、何もしらない。しかし、右の一言で、チャーチルという人は、よっぽど偉い人にちがいないと、きめてしまったことである。
 何のかのといってはいるが、要するに、私は忙しすぎたということなのかもしれない。忙しさのあまり、過去をふりかえったり、過去にかかわりあっている暇がなかった、というだけのことかもしれない。

序にかえての差し込み写真(手賀沼)

魚が釣れても、釣れなくても、黙々とエサを打ち続ける山村聰さんです。エサが白っぽいので、マッシュ系なのと、手前のやや大きめの浮子の位置から、かなり浅場なのが分かります。場所は手賀沼です

 なくなった三好十郎さんが、あるとき、いかにも不思議そうに、私に言った。
「滑稽だよ、君って男は。よく分からん。火の粉を払いながら、一生懸命に火事場を走り抜けているように見えるが、一体、何のために走っているのか、てんで分からん」
 私はどかんと一発食った思いで、以来、何をやっても、すぐ、三好さんの言葉を思い出す。しかし相も変わらず忙しいばかりで、何のために走っているのか、あいまい模糊としている。全くもって、未だにすっきり出来ない愚かさは、ほとほと愛想がつきる。
 私は、型通りの、貧乏士族の成れの果ての家に生まれ、六人兄弟の長男であった。スパルタ教育でしごかれ、「喜怒哀楽を面に現わさず」式の、儒教的躾が、がっちりと利いて、近所の褒めものであったが、旧制高校へ入った。最初のクラス会で、愕然としたものだ。級友の殆どが、ある者は、芸術論を展開し、ある者はマルクス論を説き、颯爽と自己紹介をした。私には、主張する何者もなかった。何か、いっぱし、しゃれたことを言いたかったのであろう。
 「僕は、何もしないで、漫然としているのが好きです」
 とやって、一座の失笑を買った悔しさが忘れられない。一時、マンゼニストの綽名をもらった。
 仲間で、文芸同人雑誌をつくり、私も短編小説を書いた。仲間の批評に曰く、
「これは、小説以上でもなければ、以下でもない」
 私には、何のことか、まるで分からなかった。
 また、あるとき、仲間が私を揶揄した。
「0から9まで数字があるが、どの字が、君は一番好きかね」
 私は返事ができなかった。そんなことは、ただの一度も考えたことがなかったからだ。
「あいつは腹の分からん男だ」と言われたこともある。
 要するに、私はあまりにも善良で、躾が利きすぎて、まったくの没個性であったのだ。そのことに気付いたときの、おどろきはひどかった。
 家庭でも、外でも、その頃から、私の造反がはじまった。随分、親を泣かせたものである。自分の眼で見、感じ、考え、自分の所業に責任をもつこと。私はいまだに、自らの個性発見に向かって、うろちょろしている形がある。
 しかし、世の中には、私のような馬鹿ばかりではない。実に堂々たる、立派な人が少なからずいることはたしかで、そのような人には、必ず、立派な歴史がある。私たちは、その人の歴史をしらべ、その偉大さにあやかるのだが、私たちの賛嘆する当のご本人が、その豊かさ故に、却って、豊かさを自覚していない節が見えるのは面白いことだ。  利根川北南という指圧師が、先日、六十九歳でなくなった。神学校を出て、教会の牧師になってから、高い教壇からの伝道に疑いを持ち、改めて、学校に通って指圧を習い、以来四十数年、人に向かってキリストの教えを説くことなく、指圧を通じて、無言の伝道生活を全うした人である。およそ、この世の悦楽というものには、一切目を向けず、ただ神の導きにすがり、そのことのみを唯一無二の生甲斐として、早朝から深夜まで、求められるままに、どこまでも出かけて行った。ただ一人の弟子もとらず、一切の売名、打算の外で生き抜いたその美しさは、まさに、人間業ではなかった。
 指圧の術から言っても、私は未だに、この人の右に出る人を知らない。医者の見放した難病を、いくつも奇跡的になおした。技術というものが、強烈な精神に裏打ちされて初めて技術たり得ることの、典型的な証人でもあったのである。
 世に埋もれた偉い人は沢山いるはずで、歴史というからには、真に偉い人でなければ困るのである。世俗的な成功者の歴史ほど不潔なものはない。
「私にはまだ、歴史がございませんので」
 などと、嫌みな返事はしたくないものである。