名竿「孤舟」の秘密(2)

 旭匠さんは、自らを、作者、あるいは作家と称した。竿師と呼ばれることを嫌っていた。竿師は、あくまでも職人であって、作家などといえる代物ではない、という見方からすれば、明らかに居直っていたことになる。しかし、これは決して、旭匠さんの傲慢ではない。
 職人であろうと作家であろうと、要は、作った竿の立派さが勝負であることは、旭匠さん自身、百も知っていたはずだ。現に、芸術家といわれている人の作品が、職人といわれている人の作品に劣るという例はあまりにも多い。
 私と同業の仲間にも、役者と呼ばれることに屈辱を感じる人がある。役者という言葉のひびきが、かつての旧時代的な、卑屈なサービス業を思い出させるからであろうが、皮肉な気骨を見せて、
「あたしゃ、俳優なんてもんじゃござんせん。根っからの役者でござんすよ」
 と嘯(うそぶ)く手合いもいる。本来、拘泥するのがおかしいのだが、では何故、旭匠さんが、自らを作家と呼ばなければならなかったのか、味噌も糞も一緒にされてはかなわない、というだけでは、説明がつかないようだ。
 旭匠さんの父親は、画家であったと聞いている。芸術家的な資質は、先天的にうけついでいた形跡があり、ひょっとすると、旭匠さんの偉大さのすべての根源は、この点にあったのではないかとさえ思われる。一種の天才である。それが、旭匠さんの、独創性、開拓性につながるともいえるのだが、そこまで断言するのは、却って、旭匠さんに対する無礼かもしれない。
 若き日の旭匠さんは、琵琶の世界に魅せられ、筑前流の門を叩き、旭匠の号も、そのとき得たものだ。あの激しい一本槍の気性の旭匠さんのことだ。猛烈な体当りの稽古ぶりが目にみえるようだが、そのことが、多分、大きな原因ともなったのであろう。旭匠さんは胸を病んで、琵琶の、激しい肉体的な修練を諦めざるを得なくなり、郵便局につとめたりして、療養生活に入る。たまたま、へらぶな釣りに気晴しをもとめたのが、孤舟という名竿の生まれる機縁となった。
 先天的に芸術家的であった旭匠さんにとっては、人生百般のことが、いつも、そのような資質によって裏漉しにされる。郵便局の仕事は、気ままな勤めの療養のつもりであったが、否応なしに組合の委員長に押し上げられ、働く者のために体を張らざるを得なくなる。ある種の思想から発したのではない。権力に屈しない反骨の魂と、芸術家的な発想は、もともと、ひとつなのだ。
 気晴しのはずのへらぶな釣りが、単なる遊びを超えて、一種の求道的な探求になる。そのような角度を欠いては、たのしみがたのしみになり得ない。因果な性分といえばそれまでだが、そのような角度こそが、いつも、旭匠さんの生甲斐に通じていた。
 釣りとは何ぞや。釣りとは遊びであると知りつつも、その遊びの意味するもの、その遊びの背後の奥底には、いったい何があるのか。無心に浮子を見つめていることが、本能的に、哲学的な問いを自らにかけていることになる。元来、へら釣りというものは、理論的な詮索にも十分耐え得るだけの奥行きを持っているのだが、釣師の研究のほとんどは、技術の開拓のみに向けられ、釣りの枠内に止まるのを常としている。旭匠さんも、形は同じであったろうが、釣りを通して釣りの向こうに、何かを見ていた。単なる娯楽ではない。人生の生甲斐と直結する何かを見ていた。
 そこで行きついたのが、へら竿である。理想の釣りを追求して行くと、市販のへら竿では間に合わなくなった。そこで、竿作りがはじまる。方々から買い集めた材料は、郵便局の庭にひろげられ、暇を見ては、一本一本、選別にかかる。局の同僚たちが周囲をとりかこみ、野次と激励がとぶ。
「気狂いやな、ほんまに」
 のちになって、旭匠さんはよく語ったものだ。
「孤舟については、どうやら、ちやほや言うてくれよるが、釣師旭匠については、これぽっちも言うてくれへん、トサカにきまっせ、ほんまに!!」
 余談になるが、旭匠さんは、この「トサカにくる」という流行語が大好きで、すっかり頽(すた)れてしまったあとも、最後まで愛用していた。旭匠さんには、人生百般、聞くもの、見るもの、トサカにくることばかりであった。まっとうなことがまっとうにならない。純粋な魂にとっては明けくれが怒りの連続になる。皮肉な見方をすれば、正しく怒り得ることが、飼い慣らされていない証拠ともいえるのである。しかし、巨大で複雑な社会の仕組みは、いちいち気にしていたら、身がもたなくなるのが当り前で、従って、「のんびり行こうよ」であり、「堅いこと言うなよ」であり、「ケ・セラ・セラ」ということになる。しかし、旭匠さんは、かりにも「ケ・セラ・セラ」などとは言わなかった。怒ってもてもどうにもならないと知りつつも、怒らざるを得ない、その遣瀬(やるせ)なさが、「トサカにくる」の表現を愛したのだと思う。