思い出の釣り

稲村ヶ崎の夏

 森 雅之君とは、別に、そう親しい間柄ではない。ある時期、どういうわけか急に親しくなり、暫くすると、他の俳優と同じように、仕事以外では極めて疎遠になってしまった。
 ある夏の日、彼が突如として言うのである。
「君、投げ釣りっての、知ってる?」
「知ってるよ」
「じゃ、稲村ヶ崎へおいでよ。おもしろいぜ」
 森君が釣りをやるとは初耳であった。
「釣りをやるの、君が?」
「ああ、やるよ。ただし、豪快な奴をね」
 毎年梅雨どきになると、大磯から小田原にかけて、海浜は、キスの投げ釣りで賑わう。これは、遠投を必要とする釣りで、そのためには、滑りのいい、木製のリールが考案されていて、小田原式と呼ばれていた。特に、回転軸にベヤリングを組みこんだ小田原式リールは、威力を発揮していたが、ブレーキもストッパーもなく、投擲には相当な熟練を要した。
 かつて私が、釣りの店「ポイント」を始めた頃、釣具商が集まって、浜町のグラウンドで、釣りの祭典を開いたことがあり、各種の競技が行われた。へらぶな釣りの部では、鉄砲の標的のような、幾重にも輪を画いた紙を地面におき、競技者は、定められた箱に坐り、この標的に向かって十回、竿をふりこむ。鉤先には、芋練り大のタンポンをつけ、赤い朱肉を浸ませておく。紙に残った赤い痕跡の総合点で順位をきめるのである。
 フライ・キャスティングの部では、本場の英国あたりで用いられている練習方式に拠った。地面の上に小さな洗面器をおき、その中へ、誤りなく毛針を打ちこむのだが、距離をかえたり、投擲を、オーバーヘッド、サイドキャスティングと変えたりして順位を争った。
 投げ釣りの部では、磯釣り式、小田原式、スピニングと、使用するリールにより三部門に分けた。これは、競技を遠投の距離のみに絞らなければならない陸上では、勝敗の末があまりにも見え透いていたからである。それほど、小田原式は遠くへ飛んだ。たしか、百メートルを越したと記憶している。
 釣りの祭典を陸上で行うこと自体に無理があり、その年限りで沙汰止みになったらしいが、森君のいう投げ釣りは、多分、この小田原式にちがいないと、私は、一人合点して出かけていった。夏の真最中である。
 森君の伯父さんの、有馬生馬画伯が七里ヶ浜に住んでおられ、そこが根拠地であった。私たちは、水着一枚で稲村ヶ崎の浜辺へ出た。江の島とか、鎌倉の材木座あたりは、その頃すでに海水浴客でふくれ上がっていたが、稲村ヶ崎のあたりは、茶店の影もなく、ひっそりと静まりかえっていた。
 まず、森君がスタイルよろしく竿をふりかぶり、五、六歩走りこんで投げた。彼は、テニスがうまく、運動神経は抜群である。形も美しく、いかにも粋であった。錘は見事に遠くへ飛んだ。ところが、錘が着水しても竿を煽らず、リールを止めようとしないから、道糸は、リールの惰力でどこまでも出て行く。たちまち膨れ上がって、こんぐらがってしまった。いわゆるパーマネントである。一名、お祭りともいう。しかし、森君はいささかも顔色をかえない。悠然として竿を浜にさし、釣り道具屋の田中さんを呼びに行った。
 田中さんが飛んできて、十重二十重に縺れた糸をほぐしはじめる。それは実に、時間のかかる仕事であった。パーマネントは、はじめ誰もがやることで珍しくはない。特に小田原式は、高度な技術が必要で、かなり慣れたあとでも失敗する。外国式の、磯釣りリールは、いろいろな、合理的なメカニックを備えているが、やはり、うっかりするとやってしまう。しかし、その日の私たちは、ごく単純な横転式リールを使っていた。これは極めて容易で、パーマネントの危険は最も少い筈である。しかし、森君がやるとたちまち、お祭りである。これには驚いた。要するに、彼はまだ始めたばかりの、全くの初心だったのである。
 田中さんが汗水たらして解きほぐすまで、森君は沖で泳いでいた。
「森さん、出来ましたよ」
 と、田中さんが叫ぶ。
「そうか、よし!」
 森君は水から上がると、再び、美しい洒落た形で走りこみ、勢いよく竿を振りこんだ。すると、またしても、お祭りである。森君はやはり悠然として、当然のことのように竿を田中さんに渡し、再び海に飛びこんで行く。そこで田中さんは、たった今終わったばかりの困難な作業に、また取り組まなければならない。
 森君は天下の二枚目であった。大船の撮影所では、森君をひと目みようと、ワンサ女優がスタジオへ押し寄せたりしたほどであるが、しkし、決して、やさ男ではなかった。平生は、いかにも洗練された都会風の紳士だが、酒を飲んだりすると、なかなかの豪傑であった。
 夏の烈日のもと、森君は、まことに豪放な殿様であり、田中さんは鞠躬如(きっきゅうじょ)として、忠義な家来であった。
 守り役の田中さんが叫ぶ。
「森さん、出来ましたよ、どうぞ」
 すると、やんちゃな殿様が、泳ぎながら怒鳴るのである。
「よし、今度は、君投げといてくれ!」
 田中さんは表情ひとつ変えない。当り前のことのように、苦もなく鮮やかな遠投を行う。森君のいう豪快な釣りとは、なるほどこれであったのかと、私はつくづく愉快であった。
 今度は、私が遠投に挑戦した。横転式のリールは何度も経験があり、私は自信があった。しかし、本当の遠投ははじめてである。まず、遠くへ飛ばすことがこの釣りの先決であった。私は、竿を頭上にふりかぶり、十分な弾みをつけて走りこみ、力まかせに竿を振った。錘は気持よく飛び、それに引かれて、糸は滑らかに伸びて行った。しかし、何としたことか、結果は全く森君と同じであった。手のほどこしようもないほどガッキリと、縺れに縺れてしまったのである。沖で、森君が水を叩いて笑いころげた。
 私も彼と同じ水泳のいでたちである。しかし、水泳などはどうでもよかった。いくら不慣れとはいえ、森君に比べれば、私は釣りの大家である。名誉のためにも、繰返し挑戦しなければならなかった。田中さんが、私のパーマネントを解きながら言った。
「どうぞ、私のを使って下さい」
 そこで今度は、田中さんの竿を借りて振りこんだ。二、三度は巧くいった。しかし、また、お祭りをやらかしてしまう。田中さんがまた、不始末の尻ぬぐいをしてくれる。今度は、私の竿でやる。そのうち、二本とも使えなくなる。二人して砂浜に坐りこみ、道なき道に糸口を探しもとめるのは、まことに難行苦業であった。
 烈々たる夏の陽が灼けている。私は、ふと思い出して、体に万遍なく、オリーヴ油を塗りつけた。油をくれてやれば、悪焼けしないと聞いていたからである。ぬるぬるに塗った油が、暫くすると、からりと乾くほどの暑さであった。そこで、また、油を塗った。
 突然、田中さんが叫ぶ。
「森さん、引いてますよ。魚が!」
「よし、今行く」
 森君が馳せてきてリールを捲くと、ようやく、可憐なきすが、波打際に現れ、砂浜を曳かれて上がってきた。
「これだよ、君。釣りの醍醐味ってのはこれなんだよ」
 彼は、掌につかんだきすを高々と示して、暫くその感触をたのしむ風であったが、さっと踏ん切りをつけると、再び海へ飛び込んで行った。田中さんがまた、森君に代わって投げ、竿を砂浜に立てた。

思い出の釣り−稲村ヶ崎差し込み写真(稲村ヶ崎海岸)

稲村ヶ崎の海岸から見た、江ノ島方面です。現在でも、遙か小田原方面まで、海岸沿いは投げ釣りの好ポイントになっています

 森君も私も、全く悪戯小僧の餓鬼であった。あるとき、カメラのことで外国商社を訪ねたことがある。用事はすぐに終ったが、広い店内には、パイプや洋服地など、当時としては珍しい舶来品がきらびやかに飾ってあった。私たちは、棚に沿って見て歩いた。ふと品物に触れようとすると、背後から、
「DON、T TOUCH!」
 人差し指を顔の前でふりながら、にっこりと私たちをたしなめたのは、六尺豊かな支配人である。高い鼻に、立派な八字髭。金モールの制服は、まるで王侯貴族のような、堂々たる風貌と体格であった。年配の欧州人である。
 どうせ買いもしないのに、子供の悪戯には困ったもんだ、と言わんばかりに、支配人はどこまでも私たちに随いてくる。ちょっと品物を覗きこんだだけで、たちまちもう、
「OH、NO!」
 と、見上げるような高みから、人差指をふる。実に豪華な威厳と品位に押されて、私たちは、ぐうともいえない。
 表へ出ると、森君が、地団駄ふんで口惜しがった。
「どうだい、あの立派さ! これでも僕たちは一応日本のナンバー・ワンなんだぜ。しかも君、役者はその国の文化のバロメーターと言うくらいのもんだ。それがどうだい、奴は、ただのマネジャーじゃねえか」
 私たちは、彼の前では、ただの悪童にすぎなかった。その悪童が、今また、赫々たる夏の日盛りに、喜々として遊び呆けていた。私は次第に上達し、森君は泳ぎに夢中だ。魚が釣れると飛んできて、またすぐ海へ帰っていく。田中さんはようやく、煙草に火をつけていた。気がつくと、私は体中がひりひりと灼けていた。そこで、またオリーヴをたっぷりと塗りこんだ。
 きす釣りは盛季をすぎていた。乗込みにはおそく、秋の落ちぎすには早く、いくらも釣れなかった。

 森君の、豪快な釣りの話は、これで終りである。夕方ひどい驟雨に見まわれた帰り道、どうしたわけかエンジンが止り、二人ずぶ濡れで、修理屋へ車を押すおまけがつくのだが、おまけというにはあまりにも手痛いおまけが、その夜私を襲った。突然、凄まじい発熱である。頭から肩、腕、股、ふくらはぎ、足の甲など、夏の直射に曝された部分が無惨に膨れ上がり、搏動性の疼きが、とめどもなく前身をつらぬいた。どう姿勢をかえてみても、我慢のしようがなく、痛みは募るばかりである。夜中に医者の来診を乞い、全身、繃帯で簀(すのこ)巻にされたが、猛烈な全身の火傷であった。火によるものと全く同じである。赤黒く腫れ上がり、方々崩れて血膿を出した。
 真っ黒に肌を焼くのは、毎年のことである。湯がしみて風呂へ入れないぐらいは、いつものことであったが、日焼けがここまで行き届くとは信じがたいことであった。オリーヴ油の効果であったにちがいない。何のことはない、油をくれながら、天日の中で、体をステーキにしてしまったのである。翌日の仕事は、それこそ、地獄の責苦であった。

 森君が病床にあると聞いて間もなく、彼の訃に接した。彼は、稀に見る天才的な、二人とはいない俳優であった。次々と仲間が消えて行くとき、彼まで奪われてなるものかと、私は、必死に祈っていたのだが、今はもう、彼を見ることができない。


※森 雅之(1911年1月13日-1973年10月7日) 父は小説家の有島武郎。本名は有島 行光。弟二人と共に叔父の有島生馬らに育てられる。日本映画黄金期を代表する名優のひとりとして知られています。「白痴」「續姿三四郎」「悪い奴ほどよく眠る」など、黒澤映画にも欠かせない役者でした。(この部分は、サイト管理人による追加です)