思い出の釣り

夜の相模湖

 このダムが完成したのは、たしか、終戦後間もなくであったが、山歩きに明けくれた学生の頃には、もう工事がはじまっていたように思う。
 わかさぎも釣ったが、特に、やまべ釣りに通った。つい手近のワンドで、老人が大釣をしていて、はじめてオカユ練りで釣ることを覚えたりした。本湖の上流の、桂川まで船で溯り、ちょろちょろ滝の落ち口では、いつも、束釣りが出来た。滝の上流に、さなぎ工場があり、流出するさなぎの粉が、落ち口に、無数のやまべを集めていた。
 遊覧船の桟橋で、よく、釣場をたずねたものである。
「向こうに見える左側の、一番奥へ行ってみな、鮒が釣れるっていうぜ」
 そこで、私は、貸しボートを漕いで行った。あとで分かったことだが、そこは鼠坂(ねんざか)といわれる場所で、いつも先客が二、三人いた。釣れるのは真鮒ばかりである。仕方がないので、私も蚯蚓(みみず)をつけて真鮒を釣った。のちに、へらぶなの、超大型の釣場としてクローズ・アップされるまで、相模湖ではへらぶなの釣れたためしはなかった。
 あるとき、相模湖の日帰りのつもりが、、つい富士五湖まで遠走りした帰り道、甲州街道を相模湖の上まで来かかると、当時としては珍しい車の数珠つなぎである。不思議に思いつつ、麻布の自宅附近まで来ると、ここも車の渋滞である。いといと帰りついてみると、留守宅ではもうラジオで知っていた。
 麻布中学の学生八十名近くを満載した遊覧船が相模湖で転覆し、行方不明三十名を数える大惨事であった。積み過ぎが原因である。私の家は、麻布中学のすぐそばにあった。
 二十年も前のことで、テレビは普及していなかった。私なども、性来の天の邪鬼から、まだ持っていなかったが、翌日、偶然、知人の家で、遺体捜索の実況放送を見た。警察、消防団、取材班、それに遭難者の遺族が加わり、湖上一面にボートを漕ぎ出し、思い思いに、水に垂らしたロープをしゃくっている。手応えがあって手繰り上げると、リープの先の錨にかかって、遺体が上がってくるのだが、これは全く、釣りと変わらない。しかも、錨によるギャング釣りである。私は、憤激をおさえかねた。潜水夫を投入するとか、もっと人道的な、しかるべき救助法がない筈はない。やがて、いがぐり頭の、制服の遺体が、ひとつ、またひとつ、全身硬直のまま、水の中から現れてくる。漆黒の制服に、近釦が光っている。その度に、遺族の号泣が沸きおこる。こんな惨酷な光景はまたとなかった。鬼気迫る臨場感に、私はただ打ち慄えるばかりで、声も出なかった。
 この事件の直後、私ははじめてテレビを買ったのであるが、その頃、テレビの映像が与えたショックは、まことに激烈であった。二十年を経た今でも、思い出すと、体が慄えてくるほどである。近頃のように、居ながらにして世界の大事件に直面出来るようになってみると、どんなショッキングな大事件も、当時ほどの、鮮烈な訴求力を持たなくなってしまった。日常慣れっこになり、自分には関わりのないショーとして昂奮はするが、決して自分の心を傷めない野次馬根性が身についてきた。映像氾濫のはかなさは、映像独特の規制力を持って、瞬間人の眼を奪うが、すぐ次の映像が、別の規制力をもって、それを忘れさせる。物事は、ひとの網膜をかすめて慌しく去るばかりで、決して、心に深く沈潜すること暇がない。人間本来の、思考力や感性は、少しずつ退化の傾向を辿っている。悲しむこと、怒ることを忘れた現代は、ただ一様に、物事に対する無関心で塗りつぶされている。
「知っちゃいねえよ」
「なるようになるさ」
 世は滔々として、精神の不毛を謳歌しているような風潮にある。
 相模湖には、長いこと、それ切りになってしまった。そのうちに、夏の夜釣りで、へらぶなの大型が釣れるという情報が伝わってきた。気の早い仲間が早速試釣に行き、詳報をもたらした。場所は、青田という入り江の奥。三十尺からの深んどを狙う釣りで、竿は、丈八に、バカ(仕掛けの糸の、竿尻より長い部分)を二尋半ほど出す。釣座の背後に、崖や樹木が迫っているので、竿の振り込みはきかない。置竿のまま、掌に、餌と錘を丸めこみ、手でぽいと投げだけで十分だという。
 私は、いやな釣りだなと思った。へらぶな釣りの醍醐味は、まず、丈三から丈五の竿としたものである。せいぜい長くて、丈六どまりであろうか。三間の丈八竿にバカ二尋半とは、いかにも邪道のように思えた。それに増して私を躊躇させたのは、例の大惨事である。相模湖は、どこか、不気味であった。
 一年もたつと、青田の夜釣りは、ますます有名になった。仲間に誘われて、私もとうとう出かけてみた。夏の夜はいかにも涼しく、ビールをたのしむ者もある。納涼にはもってこいであった。小さなヘッドライトを点けて、手もとの操作を行う。別に、強力な懐中電灯を舷に固定しておき、光芒の先を、浮子に集中させる。浮子には夜光テープで目盛りをつけておく。吸い込まれるほどの、漆黒の闇に、浮子の色彩さけがくっきりと泛(うか)び、目にしみるほど鮮やかである。
 夏の夜は早く、たちまちのうちに真夜中がきた。さきほどから、少しずつ浮子がふわつきはじめていたが、いきなり、すとんと浮子が沈んだ。驚いて合わせると、たしかな手応えだ。頭上の樹にかからぬよう竿を立て、バカ取りに道糸をつかんで腕一杯に引き上げ、さらに、もう一本のバカ取りで、もう一度引きあげ、いざ手網(たもあみ)にすくい取ろうとして、どきっとした。ヘッドライトの輪の中、暗夜の水から首を出したへらぶなの、その目玉の、口吻(くちもと)の巨大なこと。
「これが音に名高き、青田のおおべらであったのか!」
 と、私は躍る胸を押さえながら、難なく取りこんだ。
 矢継早に、次が来た。しかし、これは、手網に掬いとる瞬間、暴れられて糸を切られた。そこで、仕掛けを太いものに変えた。第一号が、難なく上がったというのは、多分僥倖だったにちがいない。咄嗟のことで、さほどの大物とも思わず、無心に扱ったのだ、却ってよかったのかもしれない。二度目は、意識しすぎた。大事をとって失敗した形もある。
 つづいて、三番目がきた。これも、負けないくらい大型であったが、舷近くで跳ねられ、またしても糸を切られた。そこで、今度は、糸を一気に、二厘柄の通しとした。これならば、絶対きられる筈はない。しかし、大べらは、そのあと、ひとつも釣れず、尺一寸ぐらいのものが三枚揚ったが、この程度のものは、青田では大べらに入らなかった。
 忘れもしない、十一年前の、八月朔日のことであった。検尺してみると、尺五寸六分。背鰭の部分に鋏の切込みがあり、これは、水産試験場が、稚魚放流のとき、目印にしておいたものである。切込の形から十二歳魚と判明した。天にも地にも、これが、へらぶなの私のレコードである。当時の、へらぶな釣りでは、これが公式レコードであったかもしれない。その後記録は更新され、尺六寸を突破したときいてからすでに久しい。
 釣宿の、五宝亭主人がとった尺五寸六分の魚拓は、釣人に私の名前を誌し、長らく与瀬(現在の相模湖駅 ※web管理人の注です)の駅頭に飾られていたそうだが見に行ったことはない。私はこの魚拓を、茶掛けに表装して、今も手許にある。
 私の唯一の自慢は、それだけの大型を、偶然とはいいながら、一厘の道糸に六毛の鉤素という、大型には無謀とも言える、華奢な仕掛けで釣り上げたことである。ひと口に尺五寸というが、一生かかっても釣れるよは限らないのだから、私は、つくづく運がよかった。
 しかし、後が悪かった。朝、意気揚々と車へ引き上げてみると、三角窓が壊れていて、車の中には何もない。実は、夜釣のあと、すぐ富士五湖へ向かうつもりで、もうひとつ、別の竿袋を車においていた。その時に限って、「孤舟」と「源竿師」の逸品ばかりを撰りすぐって袋に入れていた。その他、着換えの衣服も、餌用の生芋も、アンカー釣りの、手作りの錨も、一切合切が消えていたのである。
「こんなもの盗むのは、釣師にきまってる。飛んでもない奴がいたもんだ、本当に!」
 五宝亭は、自分のことのように憤慨して警察に届けた。車から指紋をとったり、私の指紋をとったり、延々三時間以上もかかったが、品物は、ついに出なかった。竿だけは、いかにも惜しく、長い間、私は意気消沈してしまった。金額もさることながら、同じ名竿は、二度とは出来ないのである。
 その日は、富士五湖を諦めて、すぐに家へ帰ったが、私の記録は、あまりにも手痛い犠牲の上に樹てられたのである。その後、相模湖へは殆ど出漁しなくなった。釣場は、青田から次第に拡がり、本湖の至るところに、名ポイントが発見され、時には遥か上流の、桂川の砂利穴まで及ぶこととなった。相模湖を愛し、ほとんど一年中、相模湖一本槍の釣師は、決して少くない。しかし、私は、あまり好きになれないままになった。制服の金釦のまま硬直し、錨にかかって釣り上げられた、あの頑是(がんぜ)ない少年たちの、坊主頭(ぼうずつくり)が、あまりにも哀れで、いまだに私の瞼から離れないのである。