落水記

精進湖

 精進湖(しょうじこ)は、富士五湖のひとつ、火山による堰止湖の典型であり、隣の西湖(さいこ)とは、地下の溶岩の中で水が往来し、常に同じ水位を保っているので一時話題になったことがある。
 学生時代、夏の休みには、毎年必ず五湖をキャンプして歩いた。旧東海道本線の、御殿場から山中湖までの行程は、テントから食糧品一切を背負っての重装備には、いかにも苦しい一日であった。旭丘の浜に二泊ぐらい、次は、河口湖で、さかさ富士を眺めて二泊くらい。船津あたりは、今、観光客でふくれ上がっているが、当時はまだ、森閑と静まり返っていた。そこから、湖北の山を登り降りして行くと、ようやく、奥河口湖の長浜村に出る。現在のような、湖岸沿いの道はまだ出来ていなかった。長浜に一泊したあとは、西湖の根場(ねんば)部落の、小さな川口に天幕を張った。水あくまでも清く、朝めざめると、地元の漁師が鱒をあげていて、それを分けてもらって、串ざしにして火に立てた。当時、鱒の養殖をやっていたのである。根場部落は、先年の台風で、山津波に呑まれて全滅し、災害のあとは、いまも生々しく残っている。
 次が精進湖である。明治の半ば過ぎに英国人が建てたという精進湖ホテルが、卯の崎の小高い山の中腹に優美な姿を見せているだけで、湖岸にはまだ何ひとつなかった。ここまで来ると、山深くひっそりと静まり返った、幽邃(ゆうすい)の湖であった。
 本栖湖(もとすこ)は、いささか、取りつきにくかった。あまりにも奥深い山上湖は、どこか、薄気味の悪いものである。そこを最後に、朝霧高原を経て、東海道の富士へ出るのだが、この最後の行程は延々と長く、いかにもきびしかった覚えがある。
 アルバイトで貯えた金は、往復の汽車賃を僅かに上廻る程度で、殆ど無銭旅行に近かった。米、野菜など、どこへ飛びこんでも、金は受け取らなかった。学生さんということで歓迎されたものである。いやな記憶はひとつも残っていない。しかし、今は、そうは行かない。つましい山国の暮しへ、都会の観光客が流れ込むにつれ、地元はこのときとばかり、がめつい商魂をもやし、都会者は、これ見よがしの大尽風を吹かして、あとは野となれ山となれの、風儀の悪さである。
 精進湖には、戦争中、釣りの大先達、鈴木魚心さんが家族ぐるみ疎開していたが、戦後も村に残り、へらぶな釣りの指導開発に、なみなみならぬ功績を上げ、ついに、山上湖のメッカといわれるまでに育て上げた人である。
 山奥へ、よそ者が入りこんでの暮しは、さぞかし魚心さんを苦しめたことであろうが、釣師にとっては救いの神であった。私なども、芦の湖で、やまべの見釣りをしたついでに精進湖へ廻り、一面識もない魚心さんを訪ね、以来、ひとかたならぬご厄介になった。古い釣友のなかには、いきなり魚心さんの家へ押しかけ、そのまま泊りこんで、釣りの居続けをしたひとも珍しくない。
 精進湖は、当時すでに、釣りバスが数十台も並び、あの屈折の多い湖岸線が、あたかも釣堀のように人で埋まることもあった。魚も濃く、実によく釣れた、四、五人で行き、六貫目(二十三キロぐらい)を頭に、裾が三貫目(十二キロ)ということも何度かあり、型もよかった。その頃は、全員、岡釣りで船は使わなかった。貸し船も殆どなかった。釣師の、はかない願望というか、人より少しでも沖合ヘ餌を落としたくなるものである。そのためには、石を積んだりして、釣座を前へ持ち出そうとする。もっと有効な方法は、ボートの舳先(バウ)を岸にずりあげて固定し、艫の部分(スターン)に坐れば、人より五、六尺は優位に立てる。そんなことから、貸しボートが急激に増え、岡釣りに変わって、ボートによる準岡っ張りが流行しはじめた。しかし、釣師は増える一方で、好ポイントは真夜中のうちに占拠されるに及んで、アンカー釣りを試みる者が出た。船の四方から錨をおろし、十分にロープを引きしめれば、船は完全に固定出来る。私などは早速、特殊な形の、底にがっちり喰いこみやすく、しかも引揚げに容易な錨を設計して、鉄工屋に造らせ、随分、愛用したものである

落水−精進湖差し込み写真(精進湖)

現在でも、へらぶな釣りのメッカとして知られる精進湖です。毎年、5月にはボート競技の大会なども開かれています。話に出てくる、村は正面に、岩盤の裂け目は、写真でいうと左側の方になると思います

 ある晴れた、晩(おそ)い夏のことである。村の浜から見た真正面に、俗に「島」と呼ばれるポイントがあり、溶岩が大きく口を開いた裂け目は特に有名であった。そこを中心に、親しい仲間六人ほどで釣っていた。ちょうど大雨のあとのウィーク・ディで釣師の数も少く、心静かな、もってこいの釣日和であったが、どうしたわけか、私ひとり、いつまでたっても、一尾も釣れないのである。やはり、裂け目の両側がよく釣れた。たまりかねた私は、急いで村へ走り、ボートを借りて、裂け目の中心に割りこみ、あり合せの石と荒縄で錨をおろした。やがて、私も人並みに釣れるようになったのはよかったが、さて黄昏もせまり、いよいよ、竿じまいという段になって、はたと困った。錨を上げようとしたが、右に左にどう欺してみても、錨は底にがっきりと喰いこんで、びくとも動かない。そのまま荒縄を切ってしまえば何のことはないのだが、水中に長い縄が遊弋していては、あとで釣る人の邪魔になると思った。
 十分な要心をしたつもりである。もし荒縄が切れても、船の縦位置に尻餅をつけば、船の転覆はまずあり得ないと見た。そこで、そのような角度に体をさだめ、満身の力をふりしぼり、えいとばかりに曳くと、案の定、荒縄がぷつりときた。弾みでひっくり返ったのは勿論であるが、あれほど要心したにも拘わらず、尻が舷の外へ出た。あとはもう、どうしようもない。転覆するボートの姿が、ありありと目に残る感じで私は水に落ち、水にもぐりこんだ。船の中の一切合財が水に浮いた。私は手早くボートを起し、流出物を集めていると、岡では、みんな立ち上って、げらげら笑いころげている。笑わなかったのは、我が愛妻ただ一人だったそうで、椿事勃発と同時に、
「大変! 早く、誰か早く!」
 と蒼くなって口走ったという。さすがは女房と、あとで皆にさんざん冷やかされていた。
 もちろん誰も助けにこなかったし、助けてもらう必要もなかった。私も水中で皆と一緒に大笑いしたのであるが、特に、いつまでも笑いころげた、勢力(せいりき)という男がいた。英国系のハーフで、極めてノーブルな顔立ちの、底抜けに酒が強く、腕力抜群、数日の不眠不休にも疲労を見せぬタフガイであった。私の家へも、よく徹夜麻雀に押しかけてきたものだが、その後間もなく、自宅のそばの、拝島(はいじま)の剣道で、ダンプにはねられて即死した。その訃報を耳にしたのが、やはり精進湖で、私たちは怱々に釣りをやめ、その足でお悔やみに走った。当時まだ稚(おさな)かった遺児たちは、いま、どこにどうしていることであろう。
 もうひとり、特に大笑いをした、平山という韓国人がいた。彼は、韓国に鉄鉱の山を持っているとかで、東京のマンションから電話一本の司令で商売が成立するらしく、釣りをしたり、浮子をつくったり、悠々自適の、まことに優雅な身分であった。
 ちょうどその日も、「島」の割れ目の、私の隣で釣っていたが、流暢な日本語にも拘わらず、ただ一言、何としても聞きとれない言葉があった。
「カンパン? カンパンって何のこと?」
と、私はきき変えした。私には、軍隊糧食の乾パン、店の看板、船の甲板ぐらいしか連想が及ばなかった。
「カンパンだよ。カンパン」
 彼はしきりに強調するのだが、私には一向に通じない。彼は、ついに大声を出した。
「何遍言ったら分るの? カンパン、ほら、あれだよ、あのカンパンだよ」
 指さすのを見てやっと分ったが、瞬間、私はひやりとした。水中に見えている大きな岩盤が邪魔になって、巧く餌を落としてやるのに骨が折れると語っているのである。私は、彼が韓国人であることを忘れていた。それで、ひやりとしたのである。
「なんだ、岩盤のことか」
「そうさ、カンパンのことさ」
 別に、気を悪くした様子もないので、ほっとしたことだが、いかにも勘の悪いことであった。
 千葉の、雄蛇(おんじゃ)ヶ池へ釣りに行ったとき、牛そっくりの、もうもうと啼きたてる食用蛙の声に、真青になって逃げ帰るほど、気立てのやさしい平山さんである。その後、事業不振とやらで、滅多に逢わなくなったが、最近は、韓国へ帰って、グラスロッドの制作をはじめたという噂である。