釣りの店「ポイント」の顛末

「ポイント」というのは、昭和三十年頃から、足かけ七年ほど、私が経営していた釣具店の名前である。魚の釣れる急所の地点を、釣師はポイントと呼んでいる。
 もともと釣具店というものは、あらゆる釣の可能性を予見させてくれる愉しいところで、別に買物がなくても、勤めの帰りなど、一度は立ち寄って、店のおやじと駄法螺の吹き比べをしないと、気のすまない常連が必ずいるものである。
 私は非常に孤独な釣師で、ひとり黙々と釣るのが一番性に合っている。孤独のやり切れなさと隣り合わせのところに、釣の醍醐味を感じている私は、長い間、どこの釣り会にも頑なに入ろうとはしなかった。しかし、釣りを通して、何となく少しずつ知り合いが出来るもので、気の合った数人の釣りというのも、やってみれば、結構たのしいものである。
 ある日、どこの釣り場であったか、米地南嶺さんに紹介された。米地さんといえば、日本へらぶな釣研究会の理事長でもあり、へらぶな釣りの著述などを通して、その簡潔流麗な文章に親しみを持っていた。私のような新参の釣師が、釣り界の名士に近付きが出来たのも、私が俳優をしていればこそのことであった。やはり、へらぶな釣りの先達で、見るからに鋭く聡明な東大出の紳士、竹野紫泡さんと知り合ったのも、その頃のことである。それからというものは、いつも米地さんのお伴で、いろんな釣場を覚え、急激に、へらぶな釣りの実際に明るくなって行った。
「釣具店みたいなものをやってみたいんですがねえ」
 そんなことを、私は、二、三度口走ったことがある。言ってみれば、これは、所詮かなわぬ夢と承知で言ったことで、当時、映画の自主制作などで大枚の借金を背負っていた私には、店を開く資金などあろう筈もなかった。しかし、米地さんは、聞き洩らしてはいなかった。
「本気で、ひとつ、やてみませんか」
 やはり、ある日の釣りの帰り道である。いきなり切り出されて、私は少なからず慌てた。
「いや、金は別にかからんですよ。場所は僕が提供します。権利金も敷金も、家賃も一切なし」
 この世知辛い世の中に、そんな巧い話があるものだろうか。私は半信半疑であった。
 その足で連れて行かれたのは、銀座のどまん中の、御幸通りである。御幸通りといえば、名代の一流店が並ぶ一等地である。
 戦後、「スタイル」という、服飾モードを主とした豪華雑誌が圧倒的にのしていた。経営者は、作家の北原武夫、宇野千代御夫妻。もちろん陰に営業面の軍師がいたのであろうが、純文学の作家にも似合わない巧みな商法として目を瞠らせるものがあった。その「スタイル社」が、御幸通りの中程に、「着物の店」を開いていた。間口の宏い大店で、きらびやかな反物がいちめんに並ぶ、その片隅に、立派な階段があり、二階へ上がると、表通りに面した半分が広々とした喫茶店で、奥の半分には、やはり着物が並び、洋裁やアクセサリーのコーナーもあった。むさくるしい釣姿がいささか面映ゆい立派さである。
「場所はここなんです。喫茶はこのままにして、奥を釣具店にしたら、もってこいだと思うんですがね、スペースもあるし」

釣りの店「ポイント」差し込み写真(銀座)

銀座4丁目の交差点です。聰さんが、釣りの店「ポイント」を開いた御幸通りは、4丁目交差点から、1本奥に入った通りで、銀座の中心街とも言える場所でした

 私は、わくわくして答えた。
「もちろん文句なしですとも、こんな素晴らしいところを。しかし、家賃も権利金も要らないとは?」
「その点はどうぞご心配なく。ここは、僕のものというか、全く僕の自由にしてよいスペースなんですから」
「でも、店を開くには、やっぱりいろんな費用が」
「人件費は、僕たちみんなが手弁当で応援しますよ。改装も殆ど必要ないでしょ、この通り陳列ケースはたっぷり揃っているし、家具もある。あとは、釣道具の仕入れだけだが、これは、どっちみち、売れた分から払えばすむことだから」
 しかし、どの程度の売れ行きがあるものか、全く予想もつかなかった。
「まさか、損することはないでしょうよ。仮に多少あったとしても、その程度なら、あなたの道楽代と考えりゃ安いもんじゃありませんか」
 私は、つい調子にのって叫んだ。
「僕は、もともと儲けたいんじゃないんで、釣りの仲間が、たのしくとぐろを巻くクラブみたいなものを作りたいのが願いなんだから、どうでしょう、同じやるんなら、いっそのこと、喫茶部の方も一緒に、総合的にやってみたいんですが」
「そりゃいい、名案だ」
「じゃ、僕のプロダクションの事務所も、ここの一隅へ移すことにして」
 相談は、たちまち一決した。
 折角の階段が、「着物の店」の内部からでは不都合だから、表通りから二階へ直接上れるように改装すること、釣竿など並べる大きな陳列戸棚を作りつけること。仕入れ商品の選択、広告マッチや、灯入れ看板の製作、なすべきことは、いくらでもあった。そして、店の名前が、釣りと珈琲の店「ポイント」ときまったのである。
 思えば思うほど、虫の好い話であった。米地さんの厚意に縋り(すがり)、何ほどの資金も使わないで、銀座の目抜きの通りに、いっぱしの経営者として大きな店舗が持てるなどとは、あり得ない話である。傍目には、余程金を貯めこんでの道楽商売と見えたことであろう。
 とにかく、私は、いい気分であった。少しでも仕事の合間が出来ると、たちまち颯爽として銀座の店へ飛んでいった。階下の、「着物の店」のレジスターには、いつも、宇野千代さんのお姉さんが坐っていた。
「今日は!」
 私は、威勢のいい挨拶を投げて階段を昇るのだが、どうしたことか、その御婦人、ほんの目礼だけで、いつも極端に不機嫌に見えた。何かあるな、とは思ったが、さほど気にもとめなかった。
 大階段の改造は、何よりも急務に思えた。大した手間はかからない。二階専用の出入口を、「着物の店」に開設するだけのことである。しかし、米地さんが言った。
「もう少し待ってくれませんか、階下との話合いがまだすんでいないものですから」
 このときも、何かあるな、とは感じた。
 釣具店の専任マネジャーは、増田逸魚さんにお願いした。増田さんは、へらぶな釣りの大先輩である。釣り無頼というか、あえて定職を持とうともせず、ひたすら釣りを追求して貧乏を顧みず、その飄々たる人柄は、その、ちょび髭とともに、深く私の傾倒する人物であった。
 米地南嶺、竹野紫泡、増田逸魚、こう並べてみると、釣具店のスタッフとしては、最高であった。はたして、開店早々から、釣界のお歴々が次から次へと顔を見せ、磯釣りあり、渓流あり、へらぶなあり、およそ、ありとあらゆる釣りの話が、いつまでも賑やかに繰り展げられた。趣味を同じくする者の集まりは、かくも自分を忘れ、利害を超えて、平和であり得るのかと、私は、いつも感傷的にさへなったことである。
 ところが、ある日突然、執達吏が現れ、「現場不変更」をうたった紙片が、店内の、ありとあらゆる所に貼られた。現場占有者が多数であればあるほど対抗上有利だということで、急拠、物件のひとつひとつに、私たちの仲間や、店の従業員が、それぞれ所有権を申し立てた。
 断っておくが、事の真相を、私は全く知らない。私の、あやふやな記憶と、私の側で聞き知った情報だけが、この文章の材料であって、「スタイル」社側から見た事の経緯については、全くの無知である。要するに、私は、いつの間にか、物件に関する紛争の中に巻きこまれていただけのことで、改めて真相を追求する気持ちもなく、また、登場人物の誰に対しても、一切の恩怨はないのである。ただ、そのときの、何が何やら分からぬままの、奇怪な私の困惑についてだけ語りたいと思う。
 簡単に事情をまとめてみると、こういうことであったらしい。あれほど華やかに見えていた「スタイル」社も、その頃は意外に台所が苦しく、大手の印刷会社をはじめ、方々にかなりの借財をかかえていた。そこで、事業再建のために、「会社更生法」の適用を受けるべく申請を出した。申請書は一応受理されることになっていて、受理と同時に、それまでの借財は一切棚上げとなり、綿密な調査を経たのち、更生に価する会社と認められれば、以後、会社が立ち直るまで管財人が出向して、事業を継続運営する。それだけの価値なしと認められた場合は、申請は却下され、その会社は破産となる。いずれにしても、申請書が受理されたあと調査が終わるまで、「スタイル」社は、一切の責務から自由になるわけで、その間、関係の物件は、一切、現状不変更の命令に服するのである。
 竹野紫泡さんは、もともと、「スタイル」社の重役陣とは、麻雀などもやる友人関係にあり、そんなことから何百万かの金融、あるいはその仲介をしたことがあるらしい。責務者の中では、一番小口であったかもしれない。しかし、「スタイル」社が、会社更生法の適用申請を準備中と聞きこんだ時点で、竹野さんはすぐ、自己防衛上の手を打ったらしい。申請が受理されてからでは、債権取立ての目処も急には立たなくなる。事は急を要した。
 これについても、詳細な事実を私は全く知らない。ただ何となく聞き知っただけの、おぼろげな情報であるが、そんなことも、或いはあり得たかも知れないぐらいには思った。何でも、さる暴力団の親分が動き、その組員が数名、寝泊りの寝具もろともトラックで乗りつけ、「着物の店」の二階を実力的に占拠したというのである。銀座の真中で、そのようなことが、白昼堂々と行われたとは、いかにも信じ難い話だが、とにかく、物件に関しては、債権の多寡に拘わらず、現にそこを占有している者に優先権が認められるからで、かりに借金はとれなくとも、占有権さえ確保しておけば、債務の取り立てが終るまでは、立退きを強制されることもない。強制的に退去を迫られた場合は、債権に見合うだけの立退料を取ることが出来る。そこを狙っての、実力占拠であったらしい。
 暴力団は、間もなく封鎖を解いたが、スペースをそのまま遊ばせていては、占有の事実も薄れるところから、喫茶店も、洋裁、アクセサリーのコーナーも、人を頼んで営業を再開した。占有責任者として、米地さんが采配を振っていたのは、釣友、竹野紫泡への狭気からであったと思う。
 やがて、私が乗り込んで、「ポイント」を開いたことになるのだが、執達吏の出現で、はじめて事の概略を知ったとき、私はしばし、呆然としてしまった。およそ物件の争いは、相反する利害の衝突であり、両者がそれぞれ、あとへは引けない根拠がある筈である。しかし、私は、事件の上に浮いていた。いずれを是とも非とも判断する立場にはなかった。私は、困惑するばかりで、暗澹として、落ちくぼんでいく行く気持ちをどうしようもなかった。なるほど、そういうわけで、碌な資本もなしに「ポイント」開店が可能であったのかと、ようやく、おぼろげながら事態が呑みこめてみると、「着物の店」の、帳場の御婦人の敵意に満ちた白い眼も、もっともなことであった。私は、知らぬ間に、「スタイル」社の大仇役を演じていたわけである。
 しかし、なぜ竹野さんたちは、このことを私にかくしていたのであろう。事件の結着を見るまでは、どっちみち、誰かに頼んで占有しなければならない場所ならば、いっそのこと山村に活用してもらい、かねての夢をかなえさせてやろう。いずれ立退料でも取れた暁には、それを資金に、新しい釣具店を出発させれば、結局は、山村にも喜んでもらえることであるし、もともと無関係の山村に、事件の内容を話して不愉快がらせることでもない。もちろん、そういった好意の上に成立った「ポイント」であったから、竹野さんたちに、悪意の悪意のあろう筈はなかった。その好意には十分感謝しながらも、私は、全く事件の外にいた。誰に加担するわけにも行かず、惨めな、割り切れぬ日がはじまったのである。「現状不変更」の紙片は、ポスターや品物で丹念にかくしたが、階段下の入口はおろか、一切の改装は見送らなければならなかった。しかし、私たち店の物以外に、このことを知る人は殆どなく、「ポイント」は、昨日と何の変りもなく、華やかな、クラブ的な賑わいを見せていた。

 店は、はじめ、あらゆる釣の、総合的な道具を揃えるつもりであったが、集まる客の多くが、次第に、へらぶなの釣師に絞られる形となり、勢い、へらぶな釣りの専門店になって行った。
 私は、特に、竿に重点をおいていた。竿は、主として、源竿師、竿春などの紀州竿を主力とした。当時、へら釣りの大家たちが、口を極めて羽田旭匠師の「孤舟」を賞賛していたが、私があえて紀州竿を推したについては、ちょっとしたわけがある。私の尊敬する古い釣友に、金子四郎という人がある。彼は、へらぶな釣りの、かくれた草分けの一人であるが、長年勤めた国鉄を退き、竿の問屋に生活を賭けていた。彼は単身紀州竿の本場に乗り込み、源竿師と竿春の、関東における販売権を得ていた。その金子さんを応援する気もあったが、なるほど金子さんが惚れるだけあって、源竿師の竿は素晴らしかった。これほどの名竿が、関東で全く無名というのは、いかにも腹立たしく、私は、意識的に、この師弟の竿を数多く並べたのである。結果は好評であった。へらぶなの大家たちが、ひとつひとつ継いでは、竿の調子をしらべ、穂先の、穂持ちの一本一本に、執拗な論議を戦わす有様は、壮観であった。特に、旭匠師の「孤舟」との比較研究は、綿密を極めた。竹の太さ、テーパーの度合い、長さ、竹の質、節の扱い、さしこみの技術など、あらゆる角度から、それぞれの特質が観察された。おそらく、どこの釣具店でも、これほどの追求はあり得ないことであった。もともと、釣竿というものに、異常な興味を抱いていた私が、解きようもない懐疑につき当たり、矛盾撞着、その中に一本の筋道さえ見出せなくなった程、各人各説、活発な論議が展開された。後年、へら竿というものについて、ある種の、結論めいたものを引き出すことが出来たのは、その頃の、極度の混乱が出発であったとも思えるのである。

釣りの店「ポイント」差し込み写真(源竿師)

「孤舟」とともに、聰さんも愛用した、「源竿師」のへらぶな竿です。最高峰の釣竿として、現在でも人気のある竹竿です。細身で張りのある竿を作るために、竿師さんたちは、良質な竹を探し、技術を高め、現在にも受け継がれています

 やがて、誰いうことなく、「ポイント」を中心に、「銀座へらぶな会」が出来上がった。はじめ、十名ほどの仲間であったものが、いつの間にか、百名ほどにもふくれ上り、「ポイント」は、いよいよ、会のクラブの相を呈し、いやが上にも賑やかになって行った。
 しかし、店の営業は伸びなかった。宣伝が足りないこと、表通りに出入口のない入り難さもあったが、何よりも、必死になって経営にしがみつく中心がぼけていたことが原因である。肝心の私が、仕事の合間にしか店へ出られなかったし、損さえしなければ十分といった、私の放漫な姿勢が、表面だけの繁栄は呼んでも、実利にはつながらなかった。月末には、きまって、すくなからぬ欠損が出た。欠損はもちろん私が補填しなければならなかった。
 珈琲の店「ポイント」もまた欠損であった。バーテンダー二人に、ウェイトレス四人は、スペースから言って最低の人員であったが、珈琲中心の店では、水揚げも知れたもので、人件費すら賄えなかった。
 プロダクションの事務所は、もともと、斡旋するタレントから落ちる法定の手数料だけが収入源で、有名タレントの少ない事務所としては、事務所員の給料すら払い切れなかった。資金難から、映画の自主製作も思うにまかせぬとあっては、所詮、赤字の消費生活であった。
 どれもこれも赤字なのである。半年もすると、プロダクション・マネジャーは、強硬に、「ポイント」の閉鎖を主張した。しかし、まさか、開けたばかりの店を、閉めるわけにも行かなかった。毎月の赤字累積はいかにも堪えたが、幸いなことに、本業の映画出演の方は、まずまず流行っていた。
「なに、自分さえ我慢して荒稼ぎすれば、この程度の穴埋めぐらい、何とでもなるさ」
 私の強がりではあったが、折角、盛り上った「ポイント」の楽しい雰囲気は、何としても潰したくなかったのが本音である。

 一年半ほど経って、私は、ようやく御幸通りに訣別の決心をかためた。私が巻きこまれていた紛争事件は、その後何の進展も見せなかったから、「ポイント」の日常には何の不都合も起こらなかったが、何やら正体の分からぬ争いの上に坐っている不愉快な焦燥は、日毎に募るばかりで、もう一刻も辛抱出来なくなっていた。しかし、もともと人の好意を土台にした、私の、虫のいい開店の姿勢を考えれば、誰を恨むわけにも行かず、今度こそは、誰にも甘えず、本当の一人立ちで店を成功させてみたかった。
 日比谷映画劇場の横丁に、戦前からの古い自転車店があった。その頃、あの界隈に自転車屋が残っていたのは、少なからず奇異に見えた。小さな、粗末な、二階建ての木造家屋であったが、自転車の店はそのままとし、その奥の一室を、貸事務所用に改装してあった。経営者の老夫婦は、二階の奥に住み、表側の一室を、やはり、貸事務所として開放していた。知らせてくれるものがあり、下見に行って、すぐ、両方とも借りることにした。権利金も、家賃も、地区にしては珍しく安かった。建物は粗末で小さかったが、銀座へらぶな会の本部としても、まあまあ、銀座のうちであったし、国電の有楽町に近いのは、むしろ幸いと思った。
 竹野紫泡さんは、もともとある大物の秘書で、主人とともに野に下り、悠々釣り三昧の毎日であったが、もうその頃には、主人とともに返り咲き、遠く南米へ出発したあとであった。米地南嶺さんは、在来の行きがかりが解決するまで、物件を保持する責任があり、御幸通りに残った。増田逸魚さんには、引きつづき新店の主任として力添えを頼んだ。
 権利金、敷金などの。まとまった金額は、映画関係に頼み込んで、出演料の前借りで間に合わせた。フリーの一俳優にそんなことが出来たのも、この頃が最後である。階下を釣具店に作りつけ、奥の片隅に、プロダクションの事務所をおいた。表二階は、珈琲の純喫茶に飾りつけ、釣りの店とは、裏階段で通ずるようにした。旧「ポイント」は、殆ど居抜きのままの、引きつぎ開業であったが、新しいポイントは、造作一切に家具、什器、ガス水道、すべてが投資であり、やってみると、予算を三倍も上廻った。大部分は、利子つきの金融でまかなった。
 今度は、いささか本気であった。おろした資本ぐらいは、確実に回収しなければならなかった。店自体は、見すぼらしく手狭である。独特な内容で勝負しなければならないと思った。

 珈琲については、私は、若い頃から信念を持っていた。それだけに、私の信ずる、ほんとうに美味しい珈琲を、安く提供しようと考えた。
 珈琲は胃に悪いという通念がある。また、真黒な濃い珈琲が流行である。私は、この誤りを、二つとも解決したかった。豆の焙煎と、出し方に問題があるのである。簡単に言えば、煮沸が悪いのであって、紅茶式の、あっさりしたドリップ方式ならば、十分に、有害物質の抽出を抑えることが可能で、胃をやられる心配は、まずない。また、黒焙りの豆は、容易に濃い珈琲を作るが、炭化物の苦味が珈琲本来の苦さを不純なものにしてしまう。
 珈琲は常識的には、一人前三匁とされ、一ポンドにつき、カップ四十杯どりである。しかし、収益を上げるためには、五十カップ以上もとるところが少なくない。ところが、日本では濃い珈琲に人気のあるところから、豆は、黒焙りと相場が決まっている。つまり、少しの材料で、濃い珈琲を沢山得られるからである。煮沸しない店でも、ドリップで淹れるためには、やはり黒焙りの方が容易でもあるし、利率がよい。
 ドリップ方式が最良の淹れ方であることは、今や誰知らぬもののない常識であるが、この方式を最も純粋に推し進めていくと、紅茶式の、あっさりしたドリップに行きつく。そのためには、原料をたっぷり使わなければならない。私の自宅では一カップ六匁ほども使うことにしている。豆は浅焙りが最もよい。
 以上のようなことから、私は、バーテンダーに、一人四匁、一ポンド三十杯どりを厳命し、珈琲の問屋には、しつこく、浅焙りを注文した。しかも、値段は破格の五十円と決めた。営業的にも採算はとれる筈であった。
 しかし、理解してくれた客は、僅か数人であった。安かろう、悪かろうと思われただけである。
「いやに、ここのは、薄いなあ」
 材料をけちったと思う人さえ珍しくなかった。しかし、考えれば、これは致し方のないことでもあった。珈琲のような嗜好品は、煙草と同じで、慣れ親しんだものが、その人に美味しいということになる。誰も、それを誤りときめつけることは出来ない。「ポイント」の珈琲は、色あくまでも透明な琥珀色で、ミルクも砂糖も要らなかった。ブラックで呑むのが最も美味しく、日に何倍摂っても、決して、胃にもたれることがなかった。私は、いまだに、「ポイント」式珈琲を自慢にしているが、多勢に無勢で、いかにも口惜しいことであった。

釣りの店「ポイント」差し込み写真(西湖)

聰さんは、自宅では「ピーベリー」と呼ばれる、小粒の豆のコーヒーを愛飲していました。葉の先の方になる貴重な実で、全体の5-10%ほどしか採れません。写真の右側が普通の豆、左側が粒の小さい「ピーベリー」です。「丸豆」とも呼ばれます

 喫茶部の雰囲気も、極めて家庭的な上品さを特徴にしたいと思った。そのために、従業員はすべて、未経験者を選び、バーテンには、地方の高校出身者の若者を二人、ウェイトレスには、中学を出たばかりの、初々しい娘を二人、全員、私の家に住まわせ、家から通わせることにした。

 釣りの「ポイント」のためには、やはり、「孤舟」の竿を欠くわけには行かなかった。当時、「孤舟」は、京橋の「つるや」と、上野の「喜楽」だけが扱っていた。私は、「孤舟」によって店の売上げを増やすと同時に、中間搾取を排して、少しでも安く、ひろく釣師に届けたいと思ったのである。
 私は、ある日だしぬけに、大阪の羽田旭匠師の門をたたいた。もちろん、初対面である。
「孤舟を、全部、直結で私に下さい」
旭匠師は、乱暴な私の申し出に、暫く、きょとんとしていたが、やおら、きちんとした、鋭い眼で答えた。
「私は、竿作りだす。竿作りは、竿を作っとりゃええんで、自分の竿が、どこで売られようと、なんぼで売られようと、関係のないことで、そやから、あんたはんに竿を渡さん理由もなけりゃ、渡す理由もあらしまへん。そやけどなあ、いま入っとる問屋を泣かせるわけにはいかしません。そりゃ、大手の問屋なら構しめへんで。うちのはあんた、私の竿だけで生活を立てとる運び屋みたいな、しょうもない問屋さかいな、世話にもなっとることやし、こっちが、ちょっとようなったから言うて、蹴飛ばすわけには行かしまへん」
 まことに尤も至極で、私は、重ねては切り出せなかった。
「では、せめて、その問屋さんにお話をいただいて、私の店にも、少しは卸してもらえるよう、お願いいたします」
 以来、「ポイント」にも、数本宛は「孤舟」が並ぶようになったが、さすがは「孤舟」、荷が入ると奪い合いで、すぐに売れた。しかし、その程度では、「ポイント」の特徴とまでは行かず、営業を軌道に乗せるには足りなかった。私の企ては、まんまと失敗したわけだが、これが縁で、旭匠師の知遇を得、竿作りの手ほどきを受けるようになったのは、思いもかけない仕合せであった。
 喫茶部は、最初の一年だけ、どうやら多少の収益を上げたが、二年目からは次第に落ち、再び元には戻らなかった。釣り部も相変わらずの赤字つづきの横這い状態で、一向に上昇の目処も立たなかった。しかし、客は、常に満員であった。常連は殆ど釣りの仲間で、入れ代わり立ち代わり現れては、活発な情報の交換、釣技の討論に火花を散らし、私の望み通りの、和気靄々たる釣りの倶楽部を形成していた。反面、ふりの客はいかにも入り難く、狭い客席は、いくら人が溢れても、売れ行きにはつながらなかった。私は、欠損を埋めるために、せっせと、映画出演にはげんでいた。

「ポイント」前期の銀座時代は、例の、物件紛争の黒い霧が煩悶の種であったが、後期の日比谷時代は、人間関係の煩わしさに苦しめられた。別に事件というほどの、大問題は何も起こらなかったのだから、考えようによっては、まずは無難にすんだとも言えるのだが、とりとめもない日常茶飯の、ほんの小さな行きちがいの堆積が、いつしか、解きようもないしこりとなって、どれほど人間の神経を消耗させるものか、のちに、「ポイント」を解散したあと、久し振りに心晴々と空を仰いだ、あの回復感の有難さから逆算してみると、芯々と、改めて思い当たるのである。
 主として、四人の若い男女の引き起こす浪風であった。要するに、店の者が、私の家庭深く入りすぎていたのである。そのことが、いつも、煩瑣をきわめた原因であったようにも思う。
 バーテンダーと、店の女の子の間に、二つの組み合わせが出来つつあった。そのことは、私も、うすうす知っていた。しかし、殊更注意するほどの問題でもなかった。そのうちに、親しい仲間から、再三、忠告をされる破目になった。
「ああ大っぴらに、じゃらじゃらされちゃ、それこそ、顔にかかわるよ。あんたの」
黙ってばかりもいられなくて、ある夜おそく、遅番の帰るのを待ち、私は全員を応接間に集めた。集めてはみたものの、こういう場合、私はまことに困惑するのである。本来、誰が誰と親しくしようと、そのこと自体、咎める理由は何ひとつないのである。強いて言えば、男の子はともかく、女の子は一応両親の承諾を得て、私の家に預かっているのであれば、当然私に監督の責任があるわけで、何らかの、忠告の義務がないとは言えないのである。私は、弱々しく切り出した。
「別に、大したことじゃないんだがね、仮にも営業である以上、客に不愉快を与えてもよくないし、この際、ひと言、君たちの気持ちをきかせてもらいたいと思ってね。仲良くするのはちっとも構わんが、いったい、本気なのか遊びなのか、その点、ひと言」
 二組の男女は、黙ったまま私を見つめていたが、年かさのバーテンが静かに口を開いた。
「どうしろというんbんですか?」
「いや、別にどうしろとは」
「理窟はどうでもいいんです。あんたは傭主なんだから、ああしろ、こうしろと命令して下さればいいんで、僕たち、別に返事することは何もないんですよ、こっちは傭人なんだから」
 あまりにも静かな、淡々とした口調に、私は一瞬、二の句が出なかった。あとの三人がどう思っていたかは分からない。誰も口をきかなかった。私は腹を立てていた。
「いやなことを言うなあ。そりゃ君、傭人根性というもんだぜ。僕の方が何も押し付けていないのに、自分の方から、そんな古い、卑屈な傭人根性の中へ閉じこもるって法はないよ。どうして、もっと素直に答えてくれないんだね」
 長い沈黙のあと、年かさの方が、ぽつりと言った。
「僕たち、別に、不真面目なつもりはないんですがね」
「それを聞きたかったんだよ。じゃ、結婚するつもりでいるの?」
「それはまだ分かりません」
「よし分かった。そっちはどうなの?」
 若い方のバーテンが、照れ臭そうに答えた。
「僕たちも同じです」
「そうと分かりゃそれでいいんだよ。ただ、お客の前では、多少、気をつけてくれることだね」
 話は、それで終わった。私にきびしく叱責されるのを予感して、頑なに心を閉ざしていたのかもしれない。みんな善良で、仕事もよくやっていた。恩にこそ着れ、何の不服があるわけではなかった。しかし、どこか、喰いちがっていた。狭い家庭の中に、それぞれ気心のちがう他人が四人もいるということは、余程の年月をかけない限り、しっかりした愛情で結ばれることは極めて困難である。お互いが妙に遠慮がちに気を使い、そのことで、どことなしにお互いの焦燥を深める。お互いの善意があればあるほど、その息苦しさを発散させる大胆さを失ってしまう。戦いようもない、他愛のない揉めごとが、いつも家庭に絶えなかった。妻から報告をきいても、
「ほっときゃいいんだよ、そんなつまらんこと」
 それだけであった。私は、ただの一度も、叱言(こごと)を言ったことがない。相手がどう誤解し反抗しようとも、傭主はあくまでも強引に個性を発揮し、傭人の上に君臨してこそ、むしろ平和な秩序が保たれやすいのだ、と説く友人もあった。しかし、相手を無視した、こちら側に都合のいい平和だけでは、私は納得がいかなかった。人間の触れ合いを大切にしようとする私の姿勢は、気の弱い優柔不断としか、ひとには見えなかったことであろう。
 兄貴分の古館君は「ポイント」を閉める半年ほど前、喜久子という子を携えて店をやめ、結婚した。何でも、親戚の不動産業を手伝っているとかで、時折ひょっこり訪ねてきたりしていたが、次第に姿を見せなくなった。今は、三人の子持ちだと聞いている。
 若い方の坂本君は、「ポイント」の最後まで実によく勤めた。酒ぐせの悪いだけが欠点であったが、最後まで、時間を守って皆勤したのは、誰にも出来ることではなかった。彼には、店を閉めることなど思いもよらなかったらしい。私のような恃(たの)みがたい者を大木と信じこみ、「ポイント」による将来の大成を夢見ていたかと思うと、裏切り者の私は心が痛んだ。
 廃業に先立ち、私は、坂本君と東美ちゃんのために、結婚披露の茶話会をひらき、私が仲人をつとめた。席上私は、柄にもなく、刈干切唄などを我鳴り、ささやかな餞けとした。この一組ばかりはどうにも気懸かりで、自由が丘の方に勤口を見つけ、アパートの世話もしたのだが、間もなく女の子が生まれ、時折見せにきたりしていたが、今は、葛飾の方の店につとめているらしい。ときどき、電話の便りがある。

「ポイント」廃業のきっかけは、家主の自転車屋さんから起こった。土地ぐるみ全家屋を買い取ってくれという申し込みである。たしか、坪あたり二百万円であった。私には、手も足も出るわけがなく、自転車屋さんは売却の決心を変えなかった。買い主はすぐに見つかり、あっという間に決った。何でも、有力な華僑だそうで、私が立退いたあと、鉄筋三階建ての、豪華な喫茶店を開き、今も、日比谷映画劇場の横丁で、栄えている様子である。
 店を閉めるのは、聞くよりも苦労が大きかった。負けいくさは、惨めな、辛いものである。従業員は、全部で十名に足らなかったが、薄給ながらも、それぞれ渡しの店で生計を立てていた。足かけ七年にわたる赤字累積の実態を訴えてみても、それは、従業員の責任とは言えなかった。頭を下げて納得してもらう以外に方法はなく、陳謝の気持は、やはり、退職金で表す以外にはなかった。
 小企業で叩き上げた釣友は、口を揃えて、私を庇ってくれた。
「冗談じゃないよ。倒産するというのに、退職金もへったくれもあるもんか、背に腹は変えられんという奴さ、鐚一文払うことはいらんよ!」
 なるほど、そこまで徹底しなければならぬものかと、改めて、自分の甘ったるい営業の姿勢が省みられたが、まさか、切捨御免とも行かず、一応、総員、月給三ヵ月分の、一時金で勘弁してもらうもととした。みんな、大人しく承知してくれたのは、いかにも有難かったが、中に、一人だけ、ごねた男がいた。普段は極めて物静かな、おどおどと気の小さそうな善人であったが、突如大声を上げて喚きちらし、店の品物を投げて荒狂った。
「さんざん苦労させたあげくが、たったの、これぽっちか。馬鹿にすんなッ!」
 と、彼は、三ヶ月分の退職金を、足で踏みにじって見せるのである。さすがに私も、むっと来たが、言われてみれば、怒るのも重々もっともなことであった。他の者には悪いと思いながらも、私は、六ヶ月分を支払うことで、無理にも納得してもらった。
 増田逸魚さんには、退職金を払わなかった。彼はもともと、私の古い釣りの先輩であり、共同経営の心意気から、開店のとき、たしか、自発的に、五万円ほどの出資をうけていた。私は謹んで、五万円をお返ししただけである。彼は辞退したが、返さないわけにはいかなかった。増さんは、瓢軽に、ちょび髭をこすって笑った。
「いやあどうも、聰さんの店となると、何が何でも設けなくちゃという迫力が湧かなくてね。損ばかりさせて、ごめんなさい」
「増さんの責任じゃないさ」
 と、私は肩を叩いて慰めたが、彼の言う通り、私の道楽気分が旺溢しているようでは、雰囲気ばかり盛り上がっても、経営の失敗は、当然の帰結であった。
 当時、映画はまだ隆盛で、店の穴埋めぐらいは何とかなったが、「蟹工船」などの自主制作で大枚の借金を負っていたし、税金にも追われ、身から出た錆とはいえ、苦しく長い、七年のやりくりであった。日比谷店開業の投資金は、ついに、ただの一文も回収出来なかった。自転車屋さんの申し出は、実は、救いの神であった。折角築き上げた、銀座へらぶな会のたのしい本拠を、自らの手で破壊するのは、いかにも心残りであったが、もう一度新店を張るには窮乏甚しく、「ポイント」廃業の潮時は、来ていたのである。
 釣具部は、最後の三日間、在庫品のはたき売りをやった。元値をはるかに割った安売りである。いくら小さな店でも、品数は結構あるもので、たった三日間で売り切れるとは思ってもいなかった。私は、たまたま仕事が忙しく、店へ現れたのは、最後の日の午後であったが、私は驚いて目を瞠(みは)った。がらんとして何ひとつないのである。天井で埃をかぶっていた、鱒用の、西洋たも網の破れたものまで、一切合切売れてしまったというのである。最後に残った一山は、さる大学の釣クラブが、喜んで浚って行ったらしい。
 私にも欲しいものがあったのである。私は、ひそかにメモをとり、その分だけは、売出の前に押さえておくつもりであった。今はなき、初代竿敏の磯竿などは何としても取っておきたかったが、あとの祭りであった。

 物事の終は、辛く悲しいものである。しかし、終わってみると、大変さばさばとした、明るいものである。終りの美学は、終りそのものにあった。
 私は、いまだに、ひとにいわれる。
「釣りの店をやってるんですって?」
「ポイントには、随分、通ったもんですよ、僕も」
「また作って下さいよ。ああいう楽しい場所を」
 まこと、花の命は短かったが、苦しきことのみ多かったわけでもない。どうも私という人間は、いとも簡単に物ごとに深入りし、西も東も分からぬまま七転八倒し、文句たらたら喘いでいるくせに、一方、生甲斐につながる幸福感に辿りついて行く。これはもう、仏教でいう、餓鬼のたぐいにちがいないのである。
 日比谷へ移ってからは、銀座へは全く足を向けなかった。物件紛争のその後については、私は、いまだに何も知らない。米地さんに聞けば、多少の成行も分かるのであろうが、私は絶えて聞いてみたことがない。「着物の店」は、なくなったらしい。米地さんは、とっくに二階を引揚げた様子で、今は相変わらず、釣りの新聞記事などに、例の、簡潔流麗な健筆をふるっておられる。また、私たち「銀座へらぶな会」創設の一人として、以来十七年、顧問をつとめておられる。
 竹野紫泡さんは、一度、南米から帰朝されたが、逢う機会がなく、その後、家族をあげて移住されたという。たまには、ブラジルのへらぶなを釣っているかもしれない。
 数年前、中野の方に釣具店を開くひとがあり、「ポイント」の名前を使いたいからと、人を介して照会があった。私は、喜んでお受けしたので、いまや、もっと豪華な、釣りの店「ポイント」が繁栄していることであろう。残念ながら、まだ私は、行って見たことがない。